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聖書から見える結婚観(1)結婚って何だろう?

  • Feb 10
  • 12 min read

Updated: Feb 18

当教会リーダー神戸基秀が「聖書から見える結婚観」についてまとめたものをご覧いただけます。


これは2024年4月に当教会で行った学び会の原稿に加筆修正したものです。

特に断りがない場合、聖書本文は「聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会」より引用しています。


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今回のポイント


  1. どのようなテーマであれ、クリスチャン生活の実践を考えていく上で最も重要なのは、イエス・キリストにあって罪の赦しと慰めの希望があるということです。 結婚・恋愛・性に関する過去の失敗や傷も、イエスにあって赦され、また将来完全に癒されるという希望が、クリスチャンには与えられています。

  2. 神は人間を男と女として、またともに神に仕える存在として造られました。

  3. 結婚は、二人の男女が互いに忠実を尽くす親密さによって、神に仕えていくための契約関係です。

  4. 「ふたりは一体となる」という結婚の親密さは、契約関係に基づく忠実さを前提としています。よって、セックスに関しても以下のことが言えます。

    1. これは夫婦間の親密さと忠実さを表す行為であり、結婚という関係性の中で与えられています。

    2. これは互いに仕え合い、従い合うという愛の実践のひとつです。


はじめに──罪の赦しと慰めの希望


今回はクリスチャンの結婚観について、土台になる価値観を聖書から考えていきましょう。その土台になる価値観とは、私たちが男性と女性に造られているということ、またそのように造られた目的、そしてその先にある結婚という仕組みについての価値観です。


しかし本題に入る前に、確認しておきたいことがあります。まず、聖書が男女関係や結婚について教えてくれている価値観は、世の中の価値観とはかけ離れているところもありますし、ハードルが高く感じられることもあるかもしれません。また、これまで辿ってきた道を振り返ると、聖書で示されている価値観に沿っていなかったのではないかと、心を探られることもあるかもしれません。


結婚や恋愛について、必ずしも神の御心どおりに歩んでいなかったという経験──率直に言えば、この分野における「罪」は、誰もが大なり小なり思い当たるところがあるものだと思います。心に責めを感じる方もいるでしょう。あるいは、心に傷を負っている方もいるでしょう。だからこそ、この繊細なテーマに取り組んでいく前に、イエス・キリストを信じる私たちに与えられている希望をはっきりと確認しておきましょう。


(1)イエスによる罪の赦し

まずはコリント人への手紙第一6:9−11から、私たちはイエスにあってこれまで犯してきた罪も、未来の失敗も、すべて赦されているということを確認しましょう。


あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(1コリント6:9−11)

これはパウロがコリント教会に宛てた手紙の一部で、9−10節では神の国にふさわしくない罪がリストアップされています。その中の多くは、リストの最初にある「淫らな行い」と関係しています。「淫らな行い」(ギリシャ語でポルノス)とは、結婚相手以外と性的な関係を持つことだと考えられています[1]。11節によれば、コリントの教会には「淫らな行いをする者」と呼ばれるような経験を持つ人たちがいたのです。しかし続けて、パウロは高らかに宣言しています。「しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(Ⅰコリ6:11b)


私たちがどのような罪を犯してきたのであれ、またどのような罪を犯す(失敗する)のであれ、イエスはその罪のために十字架で苦しみ抜いて死なれ、よみがえってくださったのです。そのことを、決して忘れないようにしましょう。


(2)慰めの希望

次に確認しておきたいイエスを信じることによる希望は、どのような傷も慰められる時が来るというものです。


それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(ローマ8:23)

これもまたパウロが書いた手紙(ローマ人への手紙)の一部です。先ほど確認したように、私たちはイエスによって罪洗われています。イエスを信じているならば、今既に神の子どもとされています。しかし今はまだ、神の子どもなのに罪を犯してしまう、失敗してしまうという現実があります。その現実から来る苦しさも、また他の人によって傷つけられたことによる苦しみもあります。これから傷つけられて、苦しむこともあるでしょう。私たちはそうしながら「心の中でうめいています」。


けれども、私たちは絶望してしまうのではなく、「私たちのからだが贖われることを待ち望みながら」うめくことができるのです。私たちはうめきつつも、将来イエスが再び戻って来られてすべての悲しみが慰められることを、イエスによってすべての涙が拭われる時を待ち望むことができます(黙21:4参照)。私たちの苦しみや傷は将来、必ずイエス・キリストによって癒されます。


神に仕えるための関係(創世記1:26−28、2:15−24)


それでは、創世記1−2章から、神が人間を男性と女性に造られたということ、そして結婚というのも神が与えてくださった大事な仕組みなのだということを確認していきましょう。


(1)人が造られた目的

まず重要なのは、創世記1:26−28です。


神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:26−28)

人間は、神が世界を創造された最終段階で造られました。27節には「神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された」とあります。神は、人間という存在が男性だけではなく、女性だけでもなく、男女の両方から成っているのが「非常に良い」(創1:31参照)とお考えになったのです。


この男女から成る人間は、神に仕える存在として創造されました。神は26節で、人間が「〔すべてを〕支配するようにしよう」と言われ、28節では人間に「地を従えよ」「支配せよ」と命じられました。神は人間に、ご自分が造られた世界を管理する役割を委ねられました。私たちは本来、この神の期待に応答して、神に仕えていくように創造されたのです。人間が男女に造られたのも、神に仕えていくという目的があってのことでした。


(2)創造の目的と結婚

このことがより詳しく、しかも結婚とも関連づけて教えられているのが、創世記2章です。少し長いのですが、2:15−24を見てみましょう。


神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」  また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」神である主は、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れて来られた。人がそれを何と呼ぶかをご覧になるためであった。人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。  神である主は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」  それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。(創世記2:15−24)

ここでは、創世記1章で「男と女に……創造された」としか言われていなかった部分が、より詳しく、クローズアップして語られています。15節では、神が最初の人(アダム)にエデンの園を「耕させ、また守らせた」という仕事を任されています。アダムは創造されてから早速、神に仕えるという役割をスタートさせたのです。


しかし18節を見ると、神は「人がひとりでいるのは良くない」と言っておられます。ここはアダムが神のための奉仕を始めたという流れの中なので、神はアダムが神に従うという仕事をする上で「ひとりでいるのは良くない」と言われたのでしょう[2]。それで神は、アダムが奉仕するために「ふさわしい助け手を造ろう」と決められました。


ここで「助け手」と訳されているヘブル語(エゼル)は旧約聖書で21回使われていますが、そのうち18回が神からの助けを表しています[3]。アダムが神に仕えていくためには、神からの特別な助けが必要でした。女性(エバ)は、アダムに必要不可欠な神からの助けとして、そしてアダムに最も相応しい助け手として創造されたのです。


エバが造られていく過程は19節から書かれていますが、23節には「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから」というアダムの言葉があります。この文章は、ヘブル語的には詩(ポエム)の形になっているというのが有力な見方です[4]。それから、「骨からの骨、肉からの肉」というのは、とても親密な関係を描いている表現です。一緒に神に仕えていくことのできるパートナーがついに与えられたという、アダムの喜びと興奮が伝わってくるような語り口なのだろうと感じさせられます[5]


これまでの一連の話を受けて、創世記の著者(モーセ)が結婚についてコメントを挿んでいるのが24節です。人間は神に仕えていく存在として、男性と女性に造られました。最初の男女であるアダムとエバは、一緒に神に仕えるパートナー同士なのだというお互いの関係を喜んだことでしょう。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」(創2:24)ここで使われている「離れ」(ヘブル語アザブ)と「結ばれ」(ヘブル語ダバク)は、契約関係を表す言葉です[6]。特に「結ばれ」るというのは、相手に忠実であることを強調する契約用語です。ここでは夫の側が「妻と結ばれ」とあるので、まずは夫側が妻に忠実であることが強調されています。箴言などでは妻の側の忠実さも大切にされていますので(箴12:4; 31:10−31)、聖書の価値観でいえば、結婚とはお互いに忠実さを誓い合う契約なのです。


聖書において「契約を結ぶ」ということは、血縁関係がない人同士が、家族のように親密で互いを担い合う関係に入ると誓うことです[7]。結婚が契約関係と見なされているのは、結婚が互いを担い合い、忠実である誓いをもって結ばれた関係だということを表しています。


旧約聖書のマラキ書2:14では、神ご自身が男女の結婚の契約に立ち会う証人だと見なされています(マラ2:14)。箴言2:17では結婚が「神との契約」とまで呼ばれていますが、これもまた、結婚が神の前で交わされる厳粛な契約であることを表現しているのでしょう[8]。ですから、結婚した男女は、神の前でこの関係を保っていく責任を負っています。


結婚が契約であることを強調していると、とても堅苦しく聞こえてしまうかもしれません。しかし、不完全な人間の感情だけが結婚関係の土台であれば、その関係は大変不安定なものとなってしまいます。神を信じる人であれば、結婚関係を保っていくことが難しく感じられるときでも、これが神の前で結ばれた契約であることを思い起こすことが、感情のブレーキとなります。結婚が厳粛な契約関係として定められているということは、不完全で不安定な罪人である私たちが神の前で結婚関係を保っていくための、神の恵みと言っても良いのではないでしょうか。


創世記に話を戻すと、夫と妻は一緒に神に仕えていく親密なパートナー同士であるという話の流れがありました。したがって、神が本来デザインされた結婚というのは二人の男女が互いに忠実を尽くす親密さによって、神に仕えていく契約関係なのだといえるでしょう。


(3)結婚とセックス

そして、互いに忠実を尽くす契約を結んだ「ふたりは一体となる」のです(創2:24)。この「一体となる」は、明らかにセックスという肉体関係によって一つとなることを表しています。ここから2点、大事なことが分かります。


  1. セックスという行為は、結婚した男女の親密さを表すものです。よって、この行為は、結婚という特別な契約関係の中で与えられているということを忘れてはなりません。

  2. 結婚した男女が一つになることは、お互いへの忠実さを実践することでもあります。そしてこれが、夫婦のお互いの忠実さを一番よく表す行為なのです。よって、この行為の一番の目的は、自分の欲求を満たすことではないのです。お互いが尽くし合う、お互いが仕え合うということが、聖書で想定されているセックスの在り方です。


改めて確認しますが、結婚とは、親密な二人がお互いに忠実を誓い合う契約関係でした。そして結婚は、その二人が神に仕えていくための関係でもありました。よって、結婚の親密さを表す行為も、お互いへの忠実さと、神への忠実さの両方に関係しています。結婚した男女は、お互いが親密であり、喜び合える関係であり、忠実であることによって、神に仕えていくのです。夫婦で神に仕えることには様々な形があると思いますが、その根本にある姿勢は、夫婦がお互いに忠実を尽くすことによって、夫婦それぞれの神への忠実さを表していくことなのです。


注釈



[2] Kenneth A. Mathews, Genesis 1:1−11:26, New American Commentary (Nashville, TN: B&H, 1996), 213; クリストファー・アッシュ『聖書が教える結婚と性』井上有子訳(いのちのことば社、2023年)39−40頁


[3] 例:出18:4; 申33:29; 詩20:2; 121:2


[4] 例:Mathews, Genesis 1:1−11:26, 218; Gordon J. Wenham, Genesis 1−15, Word Biblical Commentary (Nashville, TN: Thomas Nelson, 1987), 70.


[5] 参照:John E. Hartley, Genesis, Understanding Bible Commentary Series (Grand Rapids: Baker, 2000), 62; Mathews, Genesis 1:1−11:26, 218.


[6] Victor P. Hamilton, The Book of Genesis: Chapters 1−17, New International Commentary on the Old Testament (Grand Rapids: Eerdmans, 1990), 181.


[7] 参照:サンドラ・L・リクター『エデンの物語 旧約の民が読んだ聖書』篠原祥隆訳(いのちのことば社、2016年)64−65頁; Daniel I. Block, Covenant: The Framework of God’s Grand Plan of Redemption (Grand Rapids: Baker, 2021), 1; Paul R. Williamson, Sealed with an Oath: Covenant in God’s Unfolding Purpose, New Studies in Biblical Theology (Downers Grove, IL: InterVarsity, 2007), 40−43; Gordon P. Hugenberger, Marriage as a Covenant: Biblical Law and Ethics as Developed from Malachi (Eugene, OR: Wipf and Stock, 2014[1994]), 214−15.


[8] Bruce K. Waltke, The Book of Proverbs: Chapters 1:1−15:29, New International Commentary on the Old Testament (Grand Rapids: Eerdmans, 2004), 231.

 
 
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