聖書から見える結婚観(2)妻に言われていること・夫に言われていること
- Feb 17
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Updated: Feb 18
当教会リーダー神戸基秀が「聖書から見える結婚観」についてまとめたものをご覧いただけます。
特に断りがない場合、聖書本文は「聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会」より引用しています。
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今回のポイント
結婚関係は、夫婦それぞれがイエス・キリストを模範として、互いに愛し合い、思いやりをもって仕え合う関係です。そのようにして、夫婦は自分たちの主であるイエスに仕えていきます。
夫は、イエスが教会を愛されたように、犠牲を惜しまない愛をもって妻を大切にするように教えられています。
妻は、クリスチャンがイエスに従うように、夫のリーダーシップを認め、夫の役割を尊重し、敬意をもって支えていくように教えられています。
夫婦が心身ともに一つとなることは、イエスが教会を愛し、教会がイエスを愛するという関係性を写し出すものです。
愛の実践の大原則(エペソ5:21)
今回は、新約聖書のエペソ人への手紙5:21−33から結婚観を教わりたいと思います。ここで手紙を書いたパウロが語っていることを通して、創世記から見てきた結婚観を、イエス・キリストという方を軸にして再確認することができます。
パウロは21節で「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」と、どんな関係性にも通じる愛の実践の大原則を伝えてから、それを夫婦、親子、主人と奴隷といった様々な関係に適用していきます[1]。
まず「キリストを恐れて」とありますが、別の翻訳では「キリストへの畏敬をもって」(岩波訳)や「キリストを畏れ敬う心をもって」(フランシスコ会訳)とも訳されています。神である主イエスを恐れることは、この方を第一として、誰よりもこの方に忠実であろうとする姿勢に繋がります。
クリスチャンはこのイエスという方によって救われ、イエスご自身と一致している(ひとつにされている)お互いです。このことを、パウロは同じ手紙の1:23で「教会はキリストのからだ」だと表現しています。この手紙の中では、「教会」とはクリスチャン全体に対する呼び方です[2]。
各々のクリスチャンが同じ「キリストのからだの部分」(5:30)だということは、クリスチャン同士もまたひとつの体として一致しているということです。このことを、パウロは同じ手紙の2:15で、クリスチャンはみなイエスによって「新しい一人の人」になっているのだと表現しています。
私たちはイエスを恐れ敬い、人生の中でこの方に従うことを優先すべきです。その上で、私たちそれぞれがイエスによって一致させられていることを意識するならば、お互いに従い合うべきだということになります。ここでの「従い合う」ということは、後に教えられていくことを見ると、具体的には互いに愛し合い、配慮し合い、尊敬し合い、仕え合っていくということです[3]。
イエスと教会の関係にならうパートナーシップ(エペソ5:22−33)
(1)思いやりに基づく関係
さて、キリストを恐れ敬うことから出て来る「従い合う」ことの実践は、単純に服従し合うこととは限りません。エペソ5:22以降を読むと、夫が妻に対して、妻が夫に対して、親が子に対して、子が親に対して、相手を配慮し仕えるときの接し方は違ってくることがわかります[4]。それでは、パウロが「互いに従い合う」ことをどのように夫婦関係に適用しているか、見ていきましょう。
まず、妻に対しては「主に従うように、自分の夫に従いなさい」と言われています(22節)。一方で、夫に対しては「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」と言われています(25節)。これらの教えは、33節で「あなたがた〔夫たち〕もそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。 妻もまた、自分の夫を敬いなさい」という形で言い直されています。
今回の箇所では、妻は夫に従えという命令が最初に出て来るので、現代の私たちはそこでつまずいてしまうかもしれません。しかしポイントは、夫の妻に対する愛も、妻の夫に対する従順も、いずれもイエスの愛に倣った思いやりから出て来る姿勢だということです。
ある聖書学者の次の言葉は、エペソ5:22−33全体の教えをうまく要約してくれていると思います。
夫が気づかいと大切に養う愛をもって妻を導き、妻が従順によって応えるという両方向の思いやりが働くときに、結婚は最もうまくいきます。[5]
イエスを最優先にした結婚関係は、妻が一方的に夫に服従するというものではありません。夫は「キリストが……教会のためにご自分を献げられたように」妻を愛さなければなりません。キリストがご自分を献げたほどの愛とは、ピリピ2:8の言葉を借りれば「十字架の死にまで従われ」たという、自分のすべてを犠牲にするほどの愛です。ここでパウロが夫に対して求めているのは、「どんな犠牲を払ってでも妻を愛せよ」ということです[6]。私たちがイエスの愛への応答としてこの方に従うように、妻が夫に従うべき理由は、夫の愛に対する応答なのです。
(2)イエスと教会の関係の写し絵としての結婚関係
エペソ5:22−33では、妻が夫に従うことも、夫が妻を愛することも、それぞれがイエスとクリスチャンの関係に倣う結果として当然のことだと教えられています。
先ほど、イエスとクリスチャンの一体化、クリスチャン同士の一体化が「からだ」というモチーフで表現されていることを見ました。この表現の仕方は、創世記2:24で見た夫婦の一体化を思い起こさせます。
実際に、パウロは夫婦関係についての教えの結論近くで「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」という創世記2:24の言葉を引用して、この関係が究極的にはイエスとクリスチャンの関係を指しているのだと言っています(エペ5:31−32)。ですから、イエスとクリスチャンの関係は結婚関係でたとえることができるものだと言えますし、逆に結婚関係はイエスとクリスチャンの関係の写し絵だとも言えるでしょう。
ただし、夫はイエスにたとえられ、妻は教会にたとえられているといっても、その関係は完全に同じではありません。これはあくまで「たとえ」であって、妻個人に対して究極的な権威を持つのは夫ではなくイエスです[7]。
イエスは、私たちの罪が赦されるべく自らを犠牲にするという目的を指して、ご自分が「仕えられるためではなく仕えるために……来たのです」と言われました(マコ10:45)。夫が倣うよう言われているのは、このイエスの姿勢です。そして、妻が倣うよう言われているのは、そのイエスに応答して従うクリスチャンとしての姿勢です。結婚関係がイエスと教会の関係でたとえられていることから、それが互いに愛と思いやりをもって仕え合う関係だということも分かるのです。
(3)妻に言われていること
それでは、妻と夫、それぞれに対してパウロが語っていることをもう少し詳しく見ていきましょう。
先ほど見たように、妻に対しては「主に従うように、自分の夫に従いなさい」と言われています。その理由は「キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです」(23節)と説明されています。イエス・キリストが教会の「かしら」(頭)であるという表現は、イエスが教会に対して権威を持っていることを意味しているようです[8]。しかし、その権威とはイエスが「救い主」としてご自分を犠牲にされたことと結びつけられていますので、支配だけではなく「仕える権威」という独特なニュアンスも加わっています[9]。夫が妻に対して権威を持っているということは、妻に対してリーダーシップを持っているということですが、そのリーダーシップには、イエスのように妻を愛し、気遣い、ケアをしていく責務が含まれています。
ここで妻に対して言われている「従う」(ギリシャ語でヒュポタッソー)という言葉は「自発的に、かつ敬意をもって、他者のリーダーシップを受け入れること」という姿勢を伝えています[10]。33節の最後では「妻もまた、自分の夫を敬いなさい」と言い換えられていますので、「敬意をもって」ということも大切なポイントだと言えます。
つまり、パウロが妻に語っているのは、自発的に夫のリーダーシップを認めて、尊敬する姿勢を持ちなさいということです。そのような妻の姿勢は、家庭のリーダーである夫をサポートすることにも繋がります。
ここで、女性は男性が神に仕えていくために必要不可欠なサポーター(助け手)として創造されたという、創世記2:18のことが思い出されます。夫婦が神に仕えていくという目的を果たしていくためには、妻の支えがなくてはならないのです。
パウロが妻に対して語っていることだけからも、夫はイエスに倣って妻を思いやるべきであり、妻はそれに応答して夫の役割を尊重して支えるという、クリスチャンとしての夫婦像が浮かび上がってきます[11]。
(4)夫に言われていること
次に、パウロは夫に対して語り始めます。夫に対して向けられている最初の言葉は「妻を愛しなさい」です(25節)。妻へは夫の権威を認めるようにと言われていましたが、夫に対して「妻を自分に従わせよ」とは決して言われていないのです[12]。
既に何度も確認してきたことですが、夫には「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられた」という愛を見習うようにと語られています。イエスがそうされたのは、ご自分のからだであり妻である教会を「きよめて聖なるものと」するためであり、将来教会を輝かしい栄光の姿に変えて「ご自分の前に立たせるため」です(26−27節)。ここにあるのは、花嫁である教会が準備のために身を清め、輝かしい装いで花婿イエスの前に立ち、ついに結婚式を迎えることになるというようなイメージです(黙19:7−8参照)[13]。
イエスが私たちを整え、理想的な姿に完成させてくださる──そのように妻を大切にし、思いやり、導いていく愛が、夫には求められています。
私たちのイエスに対する愛の深さと、それに倣って夫が妻に抱くべき愛の深さが、28−30節でも繰り返されています。私たちは当然のように自分の身体を最優先に考えて必要を満たし、健康を気にかけます(29節)。イエスは私たち(教会)をご自分の「からだ」として扱い、最優先の愛を当然のように私たちに向けてくださいました(29−30節)。そのようなイエスと「同様に」、夫は妻を愛するようにと語られています(28節)。
(5)夫婦に言われていること
パウロは創世記2:24を引用して、「男は……その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」ことを思い出させてくれています。夫婦はそれぞれに役割の違いがありますが、心身ともに深く一致した関係性を持っています。まさに「多様性のある一致」を体現する、最小単位の人間関係と言えるかもしれません。
しかし、夫も妻も不完全なお互いであり、いつも聖書が教えるように歩むことができるとは限りません。お互いへの接し方を見失ってしまうときもあります。そのようなとき、イエスと教会の関係を振り返ることで、自分たちに求められている姿勢を再発見することができます。罪赦された私たちは、救い主であるイエスの一方的な愛によって、不思議にもこの方と一致させていただきました。このイエスの愛を振り返ることは、イエスに従っていきたいという思いを起こさせます。イエスと私たちのこうした関係性を通して、夫婦の関係も見るようにと、パウロは語っているのです。
最後の33節ではこれまでの内容をまとめて、次のように言われています。
それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。(エペソ5:33)
夫には、創世記で教えられており、イエスと教会の関係で表されているような妻との深い一致を再認識して、妻を愛するようにと繰り返されています。そして妻に対しては、夫を尊敬することで、神に仕えていくという目的の中で夫が担っている役割を尊重するようにと繰り返されています[14]。夫婦は21節で言われていた「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」という姿勢を大前提にして、それぞれがイエスを恐れ敬い、互いへの愛・配慮・尊敬を表現していくのです。
創世記の結婚観との共通点
さて、創世記で教えられていたことの一つは、《結婚は本来、二人の男女が互いに忠実を尽くす親密さによって、神に仕えていく契約関係としてデザインされた》ということでした。エペソ5:22−33にある教えは、イエスと私たちの関係を軸にして、このことをより具体的に教えてくれています。結婚した男女はイエスを模範として、互いに従い合うことの実践を積み重ねていきながら、自分たちの主であるイエスに仕えていくのです。
そして、夫婦の一体化を伝えている創世記2:24が、イエスと教会の一致を表すために用いられていることに、改めて注目しましょう。夫婦が心身ともに一つとなることは、イエスが教会を愛し、教会がイエスを愛するという関係性の写し絵なのです。このことから、夫婦間の肉体関係の意義も明らかになってきます。夫婦関係の親密さがイエスと教会の関係に通じるものであるならば、夫婦が一体であることを表す肉体関係は、結婚関係の中でしか許されません。
セックスは、確かに夫婦間に喜びをもたらすものとして与えられたものです。それは、ご自分の民に対する神が「妻との親密で喜びに満ちた関係に情熱的に焦がれる夫」として表現されていることからも分かります(イザ62:5参照)[15]。
しかし、この肉体関係は、よく言われるような「カジュアル」に、結婚外の関係の中でも楽しんで良いものとしては与えられていません[16]。セックスが夫婦間の親密さを最もよく表すものであるならば、この行為もまた──この行為こそ──イエスを模範として互いを与え合い、互いへの愛と配慮と尊敬を表現し合うものであるべきなのです。
注釈
[1] ギリシャ語原文の文章としては、本来は5:18−21がひとまとまりになっており、その後の教えの導入となっています。
[2] エペ1:22; 3:10, 21; 5:23, 24, 25, 27, 29, 32
[3] 参照:F・F・ブルース『エペソ人への手紙』山岸登訳(伝道出版社、1989年)193−94頁
[4] 参照:クリストファー・アッシュ『聖書が教える結婚と性』井上有子訳(いのちのことば社、2023年)114−17頁
[5] Darrell L. Bock, Ephesians: An Introduction and Commentary, Tyndale New Testament Commentary (Downers Grove, IL: InterVarsity, 2019), 173.
[6] アッシュ『聖書が教える結婚と性』118頁
[7] Bock, Ephesians, 172.
[8] 「かしら」という比ゆ表現は「源」を意味しているという説もありますが、妻が夫に従う理由として使われていること、また同じ手紙の1:19−22では「権威」という意味の方がよく通ることを踏まえると、エペソ5:22でも「権威」を意味していると考えるべきでしょう(Bock, Ephesians, 174−75; Clinton E. Arnold, Ephesians, Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament [Grand Rapids: Zondervan, 2010], 381−82)。
[9] Bock, Ephesians, 175.
[10] Gregory S. MaGee and Jeffrey D. Arthurs, Ephesians, Kerux Commentaries (Grand Rapids: Kregel, 2021), 224.
[11] Bock, Ephesians, 172−76.
[12] アッシュ『聖書が教える結婚と性』117頁; Bock, Ephesians, 176; Constantine R. Campbell, The Letter to the Ephesians, Pillar New Testament Commentary (Grand Rapids: Eerdmans, 2023), 252.
[13] Campbell, The Letter to the Ephesians, 254−55.
[14] MaGee and Arthurs, Ephesians, 235.
[15] アッシュ『聖書が教える結婚と性』84頁
[16] Bock, Ephesians, 183−84.

