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聖書から見える結婚観(3)独身でいる意味・結婚する意味

  • 5 days ago
  • 12 min read

当教会リーダー神戸基秀が「聖書から見える結婚観」についてまとめたものをご覧いただけます。


これは2024年4月に当教会で行った学び会の原稿に加筆修正したものです。

特に断りがない場合、聖書本文は「聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会」より引用しています。


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今回のポイント


  1. 聖書の価値観では、独身でいることも結婚することも、どちらも神から与えられた生き方として大切にされています。

  2. 神に仕えていく上で、独身でいる人だけにできる仕え方があり、既婚者だけにできる仕え方があります。

  3. 大切なのは、独身か既婚かにとらわれず、今置かれている状況の中で神を愛し、神に仕えることです。


神は独身者も必要とされている(マタイ19:10−12)


創世記で確認したとおり、本来の結婚とは、二人の男女がお互いに仕え合うことによって神に仕えていく関係です。そして、結婚した男女の関係は、イエス・キリストと教会の関係を写し出すものでもあります。こうした結婚観から結婚への希望を持っていただけたら嬉しいのですが、「結婚しなければならない」とは受け取らないでいただきたいのです。


私たちは「結婚しないと半人前」だと思い込む必要はありません。また、「理想的な形で神に仕えるには結婚しなければならない」と考える必要もありません。むしろ聖書は、結婚する人も独身でいる人も、それぞれに神への仕え方があることを教えています。


実際イエスも、エペソ人への手紙を書いたパウロも独身でした。今回は、独身者として神に仕えたイエスとパウロが語ったことを確認してみたいと思います。


まずは、マタイの福音書19:10−12でイエスが語られたことを見てみましょう。


弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」(マタイ19:10−12)

ここでは、イエスが弟子たちの間違いを正そうとされています。この前の19:9までは、離婚についての教えになっています。そこでイエスは、基本的に神が結び合わせた二人を引き離してはならないと教えられました。これは、当時のユダヤ人にとっては厳しい教えだったと思われます[1]。特に男性側には、妻を離縁する自由がある程度認められていたようなので、イエスの教えを聞いた弟子たちは驚いたことでしょう。そこで彼らがイエスに言ったこと(10節)は、つまり「一人の相手と結婚を貫き通すのは、独身よりも厳しいではないですか!」ということだったのでしょう[2]


そこでイエスは、そのようなことを簡単に言うものではないとたしなめておられます。驚きなのは、神によって独身を「許されている人」がいるということです。その中には、何らかの理由で生まれつき結婚できない人もいれば、結婚できないようにさせられている人もいます。そして、神に仕えることを最優先にして、自分を制して独身を貫き通すことができる人もいるというのです。


イエスがここで使っておられる「独身者」(ギリシャ語でユヌーコス)という言葉の本来の意味は「宦官」です。つまり、イエスは「去勢された人」という厳しいイメージの言葉を使っています。この言葉遣いから、独身を貫き通すのはそれだけ厳しく、犠牲を伴う道なのだという印象を受けます。しかし、神の国のために独身であることが許されている人もいるということは、神のご計画の中で、独身者も必要とされているということなのです[3]。その代表例がイエスであり、パウロだと言えるでしょう。


当時のユダヤ人社会は、独身であることが評価されず、結婚こそ人の義務であり、結婚しないと半人前であるというような価値観が一般的であったようです[4]。そうした価値観の中で、神は独身者も必要とされているというイエスのメッセージは、実際に独身である人々にとっては励ましを与えてくれたことでしょう[5]


独身も結婚もゴールは神に仕えること(第一コリント7章)


(1)極端な結婚観を持つ教会へのアドバイス

さて、パウロもイエスと同じく独身を評価していることを、コリント人への手紙第一7章から見ていきましょう。


さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが、淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。(第一コリント7:1−2)

パウロがコリントの教会に結婚や独身について語り始めたきっかけは、コリント教会側から「男が女に触れないのは良いこと(ですよね)」と言われたことだったようです。この「男が女に触れない」という表現は、男が女とセックスをしないという意味の表現です[6]


コリント教会にはバラエティ豊かな経歴や考えを持つメンバーがいたようです。たとえば第1回の最初で見たように、かつて「淫らな行いをする者」と呼ばれる経歴を持つ人々がいました。当時のギリシャ的な結婚観というのは、まず妻の側は他の男と一緒になってはいけないのですが、夫の側は縛りが緩かったようです。夫は、当然妻とだけ寝ることが望ましいのですが、性欲を満たすためには遊女を用いることや、妻以外のパートナーを持つことも仕方がないだろうというのが、ギリシャ的、またローマ的な結婚観でした[7]。この手紙の6章後半を見てみると、パウロはそうした価値観を厳しく叱ったことが分かります。


しかし、一部のギリシャ人、特にエリート層の中には、性欲に負けず禁欲することこそ最高だと考える、もう一方の極端な考えもありました。性欲を満たすことが宗教的に汚らわしいという考えもあったようですが、当時の上流階級ではセックスが健康に良くないという考えが流行っていたことも影響していたようです。健康意識が高いエリート層の人々は、極端な場合、妻と寝ることさえも健康に悪いと考えていたそうで、コリント教会にもそうした極端な考えの人々がいたのかもしれません[8]


両極端な結婚観や性道徳を持つ人々がいる教会を指導していたパウロは、さぞ大変だったことでしょう。彼の苦労と配慮がにじみ出ているのが、第一コリント7章です。


この章では「淫らな行いを避けるために結婚しなさい」、「自制できないなら結婚しなさい」、また「結婚することも罪を犯すわけではありません」など、一見すると結婚がネガティブに扱われているようにも思えます。しかしパウロは、旧約聖書が神の御言葉だと信じていましたので(Ⅱテモ3:15−16参照)、結婚は神が造られた素晴らしい仕組みだと知っていたはずです。ですから、一見ネガティブに見える言葉遣いは、両極端な結婚観・性道徳を持つ人々へメッセージを伝えるため、綱渡りのようにバランスを取らなければならなかったパウロの心遣いの結果なのかもしれません[9]


(2)独身も結婚も良いこと

パウロが7:1−2で言っているのは、できもしない無理な禁欲をすると「淫らな行い」に陥ってしまうかもしれないので、そうした危険がある人はしっかりと結婚しなさいということです。そして3−6節まで夫婦関係について教えた後、7節ではこう言っています。


私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。(第一コリント7:7)

7節の前半で、パウロは独身の人をとても高く評価しています。なぜなら、独身の人は既婚者以上に神への奉仕に時間を使うことができるからです。たとえば、既婚者よりも独身者のほうが、友人をフォローアップする機会をたくさん持てるでしょう。個人的な経験でいうと、独身時代の方が、奏楽の練習や聖書研究に時間を費やすことができました。それから、イエス・キリストがいつ戻って来られるかわからないこの時代に、伝道の必要は日に日に増しています。独身者は神の計画が成し遂げられるためにも、また教会にとっても、必要とされている存在とまで言えるでしょう。


イエスが語ったことを見た際にも触れましたが、独身者を半人前扱いせず高く評価するというのは、当時の価値観では画期的なことでした。日本でも、結婚していない・恋人がいないということで、半人前扱いされることがあるでしょう。しかし、聖書の価値観は、そうではないのです。


それでも、独身を高く評価するだけで終わったらバランスを崩します。結婚という道も、当然、神が人に与えてくださったものです。ですからパウロは、7節を「しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります」と締めくくっています。


独身で居続けるのであれ、結婚するのであれ、神から与えられた「人それぞれの生き方」だというのが、ここでのパウロの教えです。よって、最初にコリント教会が言ってきた「男が女に触れないのは良いことですよね」という意見に対するパウロの答えは、「いやいや、独身も良いことだし、結婚も良いことだ」ということだったのです。


(3)今置かれている状況で神に仕えることの大切さ

結局のところ、神がいま私たちを置いてくださっている状況に応じて、神に仕えていくことが一番重要です。それが第一コリント7章の肝となる考え方で、特に17節でよく表されています[10]


ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。(第一コリント7:17)

ここで「神から召されたとき」とありますが、つまりは「イエスを信じて救われたとき」と言い換えても良いでしょう。パウロが伝えたかったのは「今置かれている状況、状態に応じて歩もう」ということです。


しかし、神が状況を変えてくださることもあるのです。そのことが、奴隷を例にして、21節で教えられています。


あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。(第一コリント7:21)

この手紙が書かれた当時は、奴隷という立場がありました。もしも奴隷が主人と一緒にイエスを信じて救われ、一緒に教会生活を送ることになったら、とても気まずいでしょう。しかしパウロは、奴隷の状態で救われたのであれば「そのことを気にしてはいけません。今置かれている状況のまま歩みなさい」と教えます。ただし、「自由の身になれる」機会があるならば、その機会を大いに用いたら良いではないか、というのです。


この7章全体は結婚と独身について語られていますので、21節の内容も、結婚と独身に適用することができます。今独身なのであれば、それを気にする必要はありません。しかし、結婚できる機会があるならば、それを用いたら良いのです。


独身者だけではなく、既婚者であっても状況は変わります。誰でも結婚前は独身者です。結婚後もどちらかに先立たれれば、残された一方は独身者に戻ります。結婚をする人であっても、人生の中では独身者として神に仕える期間があるのです[11]


パウロにとって大切なのは、既婚者か独身者か、奴隷か自由人かといったことに捕らわれすぎずに、今の状態を神の導きとして受け入れて、神に仕えることを最優先にするということです。そのことが、35節で語られています。


私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。(第一コリント7:35)

パウロは独身の道を評価していますが、決して「あなたがたを束縛しようとしているわけではないからね」と言っています。彼は、コリント教会の人々が結婚を選ぶことを邪魔したいわけではないのでしょう[12]。ですから、彼は7章の中で、結婚するのも良いことだとか、結婚することは罪ではないということを口酸っぱく、何度も言っています。


大切にされているのは「品位ある生活を送って」、つまり「淫らな行い」を避けて、「ひたすら主に奉仕」することです。私たちは独身であるならば、その状況を用いて「ひたすら」神を愛し仕えるのです。結婚しているのならば、夫婦二人三脚で「ひたすら」神を愛し仕えるのです。独身でいることも結婚することも、人生のゴールではありません。創世記で教えられている人間が創造された目的を考えてみれば、独身・結婚のどちらにしても、ゴールは神を愛し、神に仕えることです。


(4)まとめ

独身でいることも、結婚することも、どちらにも良いところがあります。独身期間の自由は神の前で良いものですし、結婚する中でパートナーと親密になることも良いものです。


そして、独身である今、神との歩みを楽しむことと、結婚を求めることは矛盾しないと思います。結婚という仕組みは、神が「非常に良い」と判断された世界の一部です。ならば、結婚願望を持つのは良いことのはずです。それと同時に、独身であることを神や友人と一緒に、大いに楽しむこともできます。


私たちは今置かれている状況で神に忠実に仕え続けていくことで、それぞれにふさわしい導きが与えられていくのだと思います。


注釈


[1] Grant R. Osborne, Matthew, Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament (Grand Rapids: Zondervan, 2010), 706; David Instone-Brewer, “1 Corinthians 7 in the Light of the Jewish Greek and Aramaic Marriage and Divorce Papyri,” Tyndale Bulletin 52/2 (2001): 225−43.


[2] Craig L. Blomberg, Matthew, New American Commentary (Nashville, TN: B&H, 1992), 294.


[3] 参照:クリストファー・アッシュ『聖書が教える結婚と性』井上有子訳(いのちのことば社、2022年)173−75頁


[4] R. T. France, The Gospel of Matthew, New International Commentary on the New Testament (Grand Rapids: Eerdmans, 2007), 722.


[5] 参照:ティモシー・ケラー、キャシー・ケラー『結婚の意味 わかりあえない2人のために』廣橋麻子訳(いのちのことば社、2015年)274−75頁


[6] Gordon D. Fee, The First Epistle to the Corinthians, New International Commentary on the New Testament, revised edition (Grand Rapids: Eerdmans, 2014), 305.


[7] G. W. Peterman, “Marriage and Sexual Fidelity in the Papyri, Plutarch and Paul,” Tyndale Bulletin 50/2 (1999): 163−69.


[8] Peterman, “Marriage and Sexual Fidelity,” 170.


[9] 参照:ウォルター・C・カイザーJr.、ピーター・H・デイビッズ、F・F・ブルース、マンフレッド・T・ブローチ『聖書難問注解 新約篇』(いのちのことば社、2025年)407−12頁


[10] Andrew David Naselli, “What the New Testament Teaches about Divorce and Remarriage,” Detroit Baptist Seminary Journal (NA 2019): 29.


[11] アッシュ『聖書が教える結婚と性』178−79頁


[12] Fee, The First Epistle to the Corinthians, 382.

 
 
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